Nanako ~気づきと自然~

日々の気づきの記録です。

母の死と生きる②

母がこの世界から旅立って早くも3ヶ月が過ぎた。

月日が経つにつれて、私自身の気持ちにも変化が訪れた。


なぜ、人は死ぬのだろう。

なぜ、人は生きるのだろう。

その問いを幼少期から考えてきたからこそ、母の死を通してさらに、死とはなにか、人生とはなにか、を考えるきっかけになった。


亡くなった直後は受け入れられない気持ちと、感謝と諦めと後悔とが入り混じった感覚だった。

しかし、月日が経つにつれて、母の死が、これからを生きる私の大きなギフトだったことき気がつきはじめた。

もちろん、今でも、寂しさや悲しみはふとしたときに訪れる。

それでも、死があることを自覚して、この命をよりよく生きていきたいと思うようになれた。

それは、私にとって母からの最期のギフトだった。

母が亡くなる前、私は将来について漠然と悩んでいた。

毎日がなんとなくすぎている。

やりたいことはあるけれど、やる気になれない、失敗を恐れてできないと思い込む。

毎日が「これでいっか。」の連続。

いつかできれば、と夢を先延ばしにして、目先ばかり気にしている。

生きていないのと同じように生きている。

自分で生きる道を選択するのが怖くて、決められない。


しかし、母の死を受けて、全て自分で決めて、選択しなければいけない状況が必然的に訪れた。

今までは、母が守り、支え、母が決めてくれていたこともたくさんあった。

それは自分の自由な選択ではなく、母が決めたことだと思って、その決断に甘えていたり、何かあったときに母のせいにしたりしていた。

しかし、本当は、母のレールを選ぶか選ばないかは自分自身が決めていたはず。

そこから、私が本当にやりたいこと、私の使命を考えるようになった。

自分を縛ることをやめて、なによりも私から自由になろうと決めた。

まだまだ、囚われて苦しむことも、うまくいかないこともたくさんある。

それでも、やりたいことを思いきりやろう。

この身体が、この命が与えられた今だからできることを楽しんでやろう。

そう思って、母がいない今を母の死とともに生きている。

ありのままを愛する

今日、子どもたちと過ごしていてハッと気づきがやってきたのでシェアさせてください🙏

 

それは散歩先でどんぐりを集めているときにやってきました。

今の時期、どんぐりの木の周りにはたくさんのどんぐりが落ちています。

「おっきいのあったよ〜」「これはちいさいよ」と2歳の子どもたちはおしゃべりをしながらカップにどんぐりを拾い集めます。

そんな子どもたちと私もどんぐりを拾っていました。

どんぐりを使って製作もしたいな〜と考えながら拾っていた私。無意識に、綺麗で形がいいどんぐりだけを自分の容器に集めていました。

しかし、ふと隣で拾っていた子どもの容器に目が止まります。

 

あれ…⁇

 

子どもたちは、虫食いのどんぐりも土がついたどんぐりも自分の容器に集めていたのです。

大小もさまざま。色も形もさまざま。

でも、子どもたちはそんなこと全然気にしていません。

 

小さくても大きくても虫食いでもとんがっててもまるくても、ぜーんぶ同じように受け入れていた😭😭 

 

私よりはるかに器の大きい子どもたちです。

綺麗なのがいい、形が整っているのがいい、って大人は思うかもしれません。

でも、そんな世界にいるのって、本当はすごく辛い。

それは自分にも言えることだから。

これはいい、これはだめ、と良し悪しをつけて世界を見るのではなく、それぞれの個性を受け入れて、それでいいんだよ、そのままの姿で素敵だよという目で世界を見れたらもっともっと自由な発想のもと生きられるかもしれません。

 

ジャッジの世界から抜け出すのって難し〜い。と思った日でした。

子どもたちに忘れていた大切なことを思い出させてもらいました。

 

ミラクルな毎日

昨日そうであったことが今日もそうであるとは限らない

同じ状況で同じ心情で同じことが起こることは二度とない

そんな毎日ってなんだかとっても愛おしい


「明日は〇〇をするのがとてもたのしみ」

と未来を楽しみにする年齢になるのはいったい、いつ頃なのだろう。

乳児の子どもたちと一緒にいると、明日を見据えた感情を子どもが抱いている場面はないように思う。

毎日ちょっとずつ成長して、確実に変化している。

彼らはその今に存在し続ける。

それに気がついた時、大きなことに気づかされる。

本当に必要なことって、今を自由に表現すること!

今に生きることはできても、過去に生きること、未来に生きることはできない。

ならば、最大限のパフォーマンスを今に注いでいる子どもたちって、すごくパワフル。

未来のことよりまず今表現したいことをする!

今やりたいこと、自分の意思を表現し続ける。

それが成長の糧になることをまるで知っているかのよう。

大人になったら未来ばかり見て考えてあれこれ打算を立ててしまうけれど、もっと自由に表現してもいいんじゃない?

と子どもたちに教えてもらった大切な気づき。

満月の気づき

今日は満月です。

毎月ありがとう。

たくさんの気づきをくれる日でもあると改めて感じます。

今日は朝から無性に胸がザワザワしていて、感情がこぼれそうになる場面がちらほら。

職場の子どもたちも同僚もなんとなくザワザワ。

それにつられて感情の波が高くおそってくることがありました。

なんでこんなにざわつくのかな?と思ったら帰宅中に満月を見て、納得しました。

自然のサイクルは恐ろしくて、それに逆らおうとすればするほど、自分のエゴが出てくるわ出てくるわ…😮

今日は「思い通りにならない」ことへのイライラがいつも以上にあらわになって、普段は裏に隠している本当の自分が顔を出しぞ、と後になって気づきました。

そう!満月は自分の表面ではなく、裏面の姿があらわになる日でもあるのです…。 

 

朝の電車が遅れ、予定通りに職場につかない。活動中の子どもに「いや!」「ままがいい!」を連呼され、予定通りに進まない。

→何ひとつうまくいかない!→それでもどうにかしたい!=思い通りにしたい

結果、イライラする。

今思えば、完全なるエゴのかたまりですね😱

うまくいかない時、思い通りにいかない時、それを受け入れられるか、受け入れられないかで大きく見方が変わります。

私たちも自然の一部。

感情が高まる時もある。調子が上がらない時もある。

それすらそれでいいんだよって言ってあげられれば、少なくとも自分や相手にイライラすることはなくなるかもしれません。

思い通りにしよう、ではなく、思い通りにするのをやめて自然に任せてみたり、結果、希望通りにならなかったとしても、それでいい!って思えれば気持ちが楽になるはず。逆に、全てが希望通りに進むことなんであり得ないですよね。

それは、自分に対してだけでなく、相手に対しても言えることです。

思い通りにしてほしい、と相手に要求ばかりしていませんか。 

私もついつい子どもたちにお願いしがち。(心の中でお願いだからトイレ行こう、着替えようを言ってしまってます😂)

この世に同じ人なんて1人もいないから、相手の違いも認めて、それでいいんだよっていう姿勢でいる。

それが自分にとっても相手にとっても生きやすい世界になるのではないかな〜と感じた満月の日でした。

母の死と生きる

今日もいつもと同じように太陽が昇る。

そして、1秒、また1秒と時が流れる。

当たり前の時間の流れ。

当たり前の毎日。

果たして、そうだろうか?


当たり前であったことが、当たり前ではないと知ったあの日。

どうして時間は真っ直ぐにしか進まないのだろうか。

時の流れをはじめて憎いと思ったあの日。

戻らない時間、それでも進んでいく今を受け入れられずに葛藤していたあの日。

たくさん泣いて

たくさん後悔して

たくさんのことを知ったあの日。

もうこの世界にはいない人を想って、それでも生きていかなければならないと知ったあの日。失うものばかりなのか?

これからずっと暗闇の世界なのか?

あの日から得たことは失ったものと同じくらい大きい。

たとえ今その存在に触れることができなくても、不思議といつもそばにいることがわかる。

私が私を生きることで、私の中に流れる母も共に生きているから。

苦しみ=わたしではない

たとえ、どんな苦しみ、悲しみ、痛み、病が私を支配しようとしても、忘れたくないことがある。

その苦しみ悲しみ痛み病=私ではないってこと。

私がわたしになるプロセスにネガティブなできごとが訪れることだってあるはず。

たしかに、苦しみは内側からやってくるから、わたしの一部ではある。

しかし、それはあくまでも一部であって、その苦しみと同化する必要はない。

わたしには色々な側面がある。

苦しみから離れたところからそっと見つめた時にそこに気がつくかもしれない。

苦しみの中に生きる選択ではなく、わたしを生きる選択をしよう。

ベクトルを苦しみではなく、私に向けよう。 

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

この1週間、理由なく気持ちが不安定な日が続いていました。

漠然とした未来、そして、漠然とした苦しみがどこからともなくやってきて、飲み込まれそうになっていたとき、寝落ちる前にメッセージは届きました。


苦しみに支配されないで。

苦しみ=あなたではない。


その時、ハッとしました。意識がその苦しみに向きすぎていて、周りが見えなくなっていたこと。

ひとりで頑張りすぎていたこと。

大丈夫?って声をかけてくれる存在。

気にかけてくれる存在に気づくことなく、抱え込みすぎていたこと。

恵まれていることを忘れて、ひとりでその苦しみになろうとしていたこと。

でも、私を違う側面から見たら、苦しみに生きる必要もそこに同化する必要もなかったことに気がついたのです。

それは、私の一部にすぎなくて、全部ではないんだ。と思えたとき、世界の見え方が少し変わった瞬間でした。

 

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Gmail:yoga.nanako.777@gmail.com

ヨガニードラでの気づき

今年の5月にヨガニードラの資格を取得して以来、すっかりご無沙汰になっていましたが、先日、寝る前にヨガニードラを実践しました。

というのも、最近になって再び、月経の周期が乱れており(3ヶ月近くきていない)😰それに伴う根本的な原因を心身を通して知りたいと思ったのがきっかけでした。

軽くストレッチをした後に、横になり、ストーンを各チャクラにのせ、筋弛緩法、ボディスキャン法、呼吸法を実践しました。

その後、マントラを胸の内で唱えながら、各チャクラに意識を向けていきました。

早い段階で、突然メッセージはやってきました。

「血が怖い!」(おそらく私のマインドの声)

私は、えっ?そこかい!と突っ込みたくなる気持ちを抑えて、その声に耳を傾けていました。

すると今度は、中学の時に受けた採血でその後倒れた過去がフラッシュバックし、さらに、おそらく過去生で、血まみれの死体の中に泣きながうずくまる私が見えました。

「あなたにとって“血”というのは、恐怖でした。そして、血は死ということを意味していました。戦い、痛み、苦痛、そして、死と血が結びついてそのまま今世のあなたにも深く影響を与えています。」

「あなたは今世で月経に対しても同じような感情を抱いていたはずです。血を見ることが怖く、そして、同時になんとも言えぬ罪悪感を感じたことがありましたね?」

確かに、振り返ると、血を見ると気分が悪くなったり、不安になったりすることがありました。

「今世では、その痛みを癒し、前向きに捉えていく必要があります。月経の血は殺し合いの中で、痛みの中で流れる血ではありません。月経が穢れと呼ばれ女性差別を受けていた時代ではありません。月経は新しい命を生み出す血です。神聖なものなのです。」

私の内側からやってきたそのメッセージに、抱いていた不安が不思議と溶けていくのを感じました。

トラウマや過去の傷は、1日、2日では癒えるものではないかもしれません。

自分の無意識を簡単に変えることはできず、意識変容には時間がかかります。

しかし、原因の根幹となる部分が分かれば、なぜ今の自分がそういう状態なのか理解はできますよね。

その上で、何ができるのか?何を意識すればいいのか?見えてくると思います。

私の場合でいえば、血に対する恐怖を認めた上で、いただいたメッセージを自分自身の心と身体に伝えてみたいと思います。

これで、どこまで改善されるか分かりませんが、血に対する恐怖は徐々に取り除けたらと思います…。

 

ヨガニードラは、無意識のレベルに働きかけ、私のようにトラウマや過去に負った傷に対する原因に気がつく、メッセージを受け取る、など本来の自分、ニュートラルな部分へと帰っていくプロセスでもあります。

とても難しい実践ではありますが、興味のある方はぜひ調べてみてくださいね。

現在、特にクラスやセッションは設けていませんが、ヨガニードラのセッションなどをご希望される方はお気軽にご相談ください。

Gmail:yoga.nanako.777@gmail.com

 

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